生き直しの物語〜大長編タローマン
高熱が出たときに見る極彩色の夢のような105分と、およそ高度情報化社会下とは思えないシャッター音まみれの『舞台挨拶』という看板が無惨に傾いた何かを体験し終えてから約8時間が経過し、なんとか「でたらめでべらぼうであった」以外の感想を残そうと筆をとる次第。
以下、本編の核心に触れるネタバレを含むので未視聴の方は回れ右されたし。
今作で初登場となるエランという機械人間がストーリーの中心である。
秩序と常識で管理された未来世界からやってきた彼は、未来で暴れている奇獣に対抗すべくタローマンを未来へ連れて行きたいと考えるが、何重ものべらぼうなアクシデントを経た末に、タローマンのでたらめをその身に宿してしまう。反対にでたらめと記憶を失ったタローマンは臆病で非力な常識巨人になってしまう。でたらめになってしまったエランの苦悩と、常識巨人タローマンの復活への過程がこの映画のキモである、と思う。
「でたらめる(※おそらく国語辞典には載っていない活用形だが、「でたらめをする」「でたらめである」ことを意味する今作初出の動詞)ことは悪である」という価値観の固定された未来社会、エリート常識人間として社会的地位を得てきたエランにとって、タローマン級のでたらめを獲得してしまったことは肩書のみならず自身の人生そのものの強烈な否定である。一時は深い絶望に落とされながらも、しかしながらタローマン級のでたらめと岡本太郎イズムが彼が落ち込み続けることを許さない(「絶望の中にいる」なら「でたらめをやってごらん」なので)。また過去作でも登場した30%機械人間の風来坊が、過去と未来の機械人間という共通点からエランと心の交流を深めていく。
一方、でたらめと記憶を失ったタローマンは、絶望こそしないものの、己の(というか本シリーズの)アイデンティティであるでたらめを失っても、常識成績は低いが岡本太郎語録に詳しい少女によって、未来のテレビヒーロー「モラルマン」を目指した強く常識的な巨人への成長を目指す。
正反対であるはずの常識機械人間とでたらめ巨人が、お互いの長所を入れ替えたことで何が起こるか、という対称性が物語のおかしみを生んでいるが、ここでひとつ問題がある。
本シリーズを追っている視聴者諸君やCBG隊員であれば、エランに植え付けられたでたらめも「なーんだ、でたらめなんてこわくないやい」と少年隊員のように笑い飛ばすであろうし、実際エラン本人もしょっぱなからミュージカルを披露している。なんでだよ。
一方、対称的に描かれる常識的タローマンはすこし事情が違う。本シリーズの核をになうでたらめを失ったタローマンも、なんだかんだ楽しく生きてらっしゃる。木人ロボット?相手に技の稽古にはげみ、夜は少女に布団をかけてやり、墜落しそうな飛行機を救助する。
でたらめを標榜する今作品において、でたらめでないタローマンが成立してしまう。これは何よりの危機である。
危機ではあるが、ここでハッと気付かされる。劇中の未来が秩序・常識至上主義になっているのと同様に、われわれ視聴者もいつしかでたらめ至上主義になっていやしないか、と。
クライマックスで高津博士が「ほどほどのでたらめは体にいいとされる」と軟着陸しているところが、本作が決してでたらめ至上主義啓蒙映画でないことの証左であろう。でたらめだけでも、常識だけでもいけない。
また対称性という点では、今作にはいくつもの対称が出てくる。タローマンが水面から引っ張り上げた鏡面の自分にはじまり、風来坊とエラン、未来CBGの幹部、タローマンと地底の太陽、CBG隊長と・・・などなど。
またメタ的な視点で見れば、エランを演じる俳優・岡本渉はタローマンのスーツアクターであり、劇中で起こる「エランの中にタローマンのでたらめが混入した」「エランを溶かした太郎汁をタローマンが飲むことでもとのでたらめが復活する」等のイベントは「それはそう」と笑いながらも納得してしまう。同一であるはずの存在が非対称な行動をとり、非対称であったものが同一に戻っていく、というおかしみと美しさがある。
「一度死んだ人間になれ」と岡本太郎が言っている。
TVシリーズ、「帰ってくれ~」ででたらめを擦りすぎてでたらめが普通になってしまい、でたらめだと感じなくなりつつあるいわば「でたらめ麻痺」のわれわれ視聴者たちに、エランとタローマンの再生を通して今一度「でたらめとは何だったか?」を問い直す作品であると言えよう。
そうか?
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