あなたの扉の内側は、わたしの扉の外側~映画「ただいまって言える場所」
「引きこもり」と「子供部屋おばさん」という二つのテーマ、二人の主人公を取り上げるのかなと思って見に行ったら、その周りも含めた群像劇、いや群“扉”劇というべきか。 公式ホームページで監督が語っているように、登場人物みんなが内からにしろ外からにしろ「扉」を開けたがっている物語である。 扉とは外と内を定義する境である。先に挙げた「引きこもり」「子供部屋おばさん」と呼ばれる単語では、「部屋の内」にいる人物が問題視されるが、同居する家族にとっては対象の部屋以外が彼らの住む「内」であり、彼らには彼らが主体のそれぞれの人生がある。できることなら悩みの種たる扉の「外」子供部屋を理解、解放し、自らの「内」と融和したいと願っている。 教師もそう。生徒30人、両親を含めた90人のクライアントの家は学校という閉鎖空間からしたら扉の「外」で、昨今のさまざまな事情からその扉を開けるのは容易ではない。下手をすれば社会的地位を失う危険すらある。終盤まで嫌味な人物として描かれている教頭先生でさえ、管理職ゆえ学校という職場の「内」、職員たちを守ろうと動いていることがわかる。 登場人物誰しもが扉を開けることで自分と他者を助けたい、守りたいと願っている。誰にも悪意はないが、時には善意ゆえの失敗をし、さらに傷を広げることもある。 この映画は自立のハウツーを教えてくれる教材ではない。どころか前述のテーマ目当てに見に来た観客によってはさらなる袋小路に迷い込む危険さえはらんでいると思う。 それでもこの映画の脚本に「とてもやさしいんだろうな」という感想を抱いたのは、きれいさっぱり解決したくても解決できない問題が社会のあちこちにある、それをフィクションであっても特効薬的なもので解決策を提示することなく、誰もがそれぞれが主体の空間の内側から扉を開こう、建付けをよくしようともがいている。そのエネルギーになるのがストレス解消のエンタメであったり、気の置ける友人とのメールだったり、お酒だったり、家で待ってるおいしいごはんだったり、愚痴だったり、飴ちゃんだったり。解決の糸口になる可能性の一例としての、「ただいまって言える場所」というタイトルは最後まで鑑賞して唸った。 ひたすら扉が開くのを待つのも決して容易なことではない。何年、何十年単位の持久戦になることだってある。それこそ特効薬で万事解決させる話よりずっと無責任だと...