「鋭利な雪」が降ったあと~映画「トリツカレ男」
いしいしんじ氏の小説を薦めるとき、
「童話のような優しく無害な世界を歩いていると思っていたら、ふいに[後頭部を思い切りがつんと殴られたような衝撃を受け][背中に刃物を突き付けられたような緊張感がはしり][みぞおちを殴られしばらく息ができなくなって]、それでも苦しみに喘ぎながら進んでいくと、きっとこの世界が愛おしくてたまらなくなる、そんな読書体験をもたらす小説家だよ」
と言う。
この[]内が厄介で、ひとに薦めるたびに言葉を選ぶ。殴られるのも刃物を突き付けられるのも悪意を持った何者かが行使するもので、しかし氏の作品に起こる事件は誰のせいでもなかったり、誰かのせいだとしてもすでに事は終わっていて、ただあとに残った人物らに深い傷を残すのみ、というケースが多く、これらの表現は適切ではない。
映画「トリツカレ男」は、この[]に「鋭利な雪」を入れたのだと、鑑賞後に思った。
長い冬の中に心を閉ざされているヒロイン・ペチカ、そんな彼女にとりつかれた主人公・ジュゼッペ、狂気ともいうべき領域まで足を踏み入れていく彼を心配する相棒ネズミ・シエロ、彼らの冷たく不安な情緒のかたわらに、三角や四角の紙片のような白い雪、鋭利な氷が散りばめられる。
クライマックスですべてを知ったペチカとシエロが爆走するくだりでは、それらの痛そうな雪は暖色で綿毛のようなふわふわした丸っこいものに変わる。文字通りペチカの冬が「氷解」したことのあらわれであり、シエロの心配もまた解決に向かうことをあらわしている。そうして物語はジュゼッペの痛々しい傷と厳しい冬の残雪が積もったままなれど、美しい青い空で締めくくられる。冬が終わり春が来るのだ。
この「鋭利な雪」こそが小説「トリツカレ男」がアニメーション映像になった意義であるとさえ言い切りたい。正直キービジュアルで不安もあったが、道化の優男のジュゼッペが終盤の変化につれて同じキャラデザインにもかかわらず「陽気」から「狂気」へ受ける印象が変わっていく演出効果は、狙っていたのだとすれば唸らずにはいられない。
ちょうど2025年の夏・秋シーズンにやや奇抜なキャラデザインのアニメーションが重なり、SNS上ではそれに対する批判も散見されるが、映画「トリツカレ男」は、私がいしいしんじ作品を薦める際に外せない柱の部分を何より重きを置いて作られているという印象を受けたので、キャラデザインによるプラスマイナスの効果はさておき、個人的には氏の映像化として大正解であると思う。
ふいに[鋭利な雪がふぶいてきて、触れたさきから身を切られ血が流れ、いつやむとも知れない冬の中に、長い長い時間閉じ込められるような恐怖と冷えにおそわれ]、それでも…この世界が愛おしくてたまらない!
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